規律訓練装置としての運動部活動における「生徒の自由」を再考する:A 高校陸上競技部を事例にして

「1. はじめに」(運動部活動の関係者は・筆者注)伝統的に部活を支配している思考・行動様式-今日それは体育会系的などと侮蔑的に呼ばれている-に拘束されてそのに気づかず, 部活における自主性・主体性とは何かということを考えたこともなく, また考えようともしていない(中村, 2009) 戦後の運動部活動では, 昨今の体罰問題に限らず勝利至上主義, 封建的組織運営, 非科学的練習, 少数精鋭主義等の様々な問題が噴出し, 多くの批判が展開されてきた(例えば, 今橋ほか編, 1987 ; 森川・遠藤編, 1989 ; 城丸・水内編, 1991 ; 内海, 1998). こうした批判の根底には, 冒頭の中...

Ausführliche Beschreibung

Gespeichert in:
Bibliographische Detailangaben
Veröffentlicht in:体育学研究 2015, Vol.60(1), pp.223-238
1. Verfasser: 下竹, 亮志
Format: Artikel
Sprache:jpn
Schlagworte:
Online-Zugang:Volltext
Tags: Tag hinzufügen
Keine Tags, Fügen Sie den ersten Tag hinzu!
Beschreibung
Zusammenfassung:「1. はじめに」(運動部活動の関係者は・筆者注)伝統的に部活を支配している思考・行動様式-今日それは体育会系的などと侮蔑的に呼ばれている-に拘束されてそのに気づかず, 部活における自主性・主体性とは何かということを考えたこともなく, また考えようともしていない(中村, 2009) 戦後の運動部活動では, 昨今の体罰問題に限らず勝利至上主義, 封建的組織運営, 非科学的練習, 少数精鋭主義等の様々な問題が噴出し, 多くの批判が展開されてきた(例えば, 今橋ほか編, 1987 ; 森川・遠藤編, 1989 ; 城丸・水内編, 1991 ; 内海, 1998). こうした批判の根底には, 冒頭の中村が示すように運動部活動における不自由さへの異議が横たわっている. 彼の語りには, 本来自由な活動であるべき運動部活動の現状が, あまりに不自由であることへの嘆きが垣間見えるだろう. このような, 不自由さの原因を戦前の軍隊教育とのアナロジーから説明する研究が存在する.
ISSN:0484-6710
1881-7718
DOI:10.5432/jjpehss.14069