新台湾ナショナル・アイデンティティの形成に及ぼす国際野球イベントの影響:2001年ベースボールワールドカップを事例にして

「1. はじめに」台湾で野球が行われるようになったのは, 1895年に日本に統治されてからであり, それから1945年までの51年間, 野球は台湾に滞在している日本人のレジャーとして行われた. 当時, 「野球とは何か」さえも知らなかった台湾人にとって, 野球は「ただ気が狂う人が棒をもっていいかげんに狂い, 舞っている. ボールを追いかけることはただ無目的に走り回るだけ」(謝・謝, 2003, p.20)という認識があった. 同じく台湾にいた日本人銀行員の邨松一造は彼が「バットでも振らうものなら忽ち狂人の夜廻りとでも」誤解され警戒されたものだと語っている(林, 2010, p.29). 台湾では...

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Veröffentlicht in:体育学研究 2012, Vol.57(1), pp.103-118
1. Verfasser: 童, 安佚
Format: Artikel
Sprache:jpn
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Beschreibung
Zusammenfassung:「1. はじめに」台湾で野球が行われるようになったのは, 1895年に日本に統治されてからであり, それから1945年までの51年間, 野球は台湾に滞在している日本人のレジャーとして行われた. 当時, 「野球とは何か」さえも知らなかった台湾人にとって, 野球は「ただ気が狂う人が棒をもっていいかげんに狂い, 舞っている. ボールを追いかけることはただ無目的に走り回るだけ」(謝・謝, 2003, p.20)という認識があった. 同じく台湾にいた日本人銀行員の邨松一造は彼が「バットでも振らうものなら忽ち狂人の夜廻りとでも」誤解され警戒されたものだと語っている(林, 2010, p.29). 台湾では日本の統治政策によって, 学校教育の一環として教科体育が取り入れられ, それにともなって日本本島と同じように「野球」というスポーツが台湾社会に浸透し始めた. 戦後の1949年, 蒋介石が率いる中国国民党(以下「国民党」と略す)政府が中国大陸から台湾へ撤退したことによって, 台湾の国民党政府と中国大陸の共産党政府とが冷戦状態になり, またアメリカとの関係もその後の冷戦時代の終焉と共に変容してきたなかで, 台湾は独自の社会発展を遂げた.
ISSN:0484-6710
1881-7718
DOI:10.5432/jjpehss.11037