元田永孚の儒教思想の座標-儒教と皇道主義の間- Motoda Nagazane's standards of Confucianism - between Confucianism and Emperor Centralism [version 1; peer review: 2 approved]

本稿は、熊本実学派の一員として人生の後半期に明治天皇の側近となり、当時の西洋近代化の流れにあって、いわゆる保守反動の儒教主義的な政治・政策の復活を主導した、元田永孚の活動の思想的意義を論じたものである。革命論と血統論の検討においては、元田の主張を熊沢蕃山との比較、さらに東アジア儒学史に照らしてみることで、革命論を是認せず血統論を既定の事実として、君主の君徳培養に強調したのが元田の一貫した姿勢であり、それは日本思想史における典型的な儒学者の立場を示すものであったことを論じた。「皇道の訓解」の検討では、「三種の神器」の意味を儒教テキストによって裏付けようとする元田の言説を対象として、それは奥深くて...

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Veröffentlicht in:F1000 research 2021, Vol.10
Format: Artikel
Sprache:eng
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Beschreibung
Zusammenfassung:本稿は、熊本実学派の一員として人生の後半期に明治天皇の側近となり、当時の西洋近代化の流れにあって、いわゆる保守反動の儒教主義的な政治・政策の復活を主導した、元田永孚の活動の思想的意義を論じたものである。革命論と血統論の検討においては、元田の主張を熊沢蕃山との比較、さらに東アジア儒学史に照らしてみることで、革命論を是認せず血統論を既定の事実として、君主の君徳培養に強調したのが元田の一貫した姿勢であり、それは日本思想史における典型的な儒学者の立場を示すものであったことを論じた。「皇道の訓解」の検討では、「三種の神器」の意味を儒教テキストによって裏付けようとする元田の言説を対象として、それは奥深くて知り難い皇道を教えやすい儒教によって補完するという意味を越えて、元田の思考では第一に儒教という絶対的・包括的なスタンダードがあり、その限りにおいて皇道の意義づけを行っていた、という見解を提示した。以上の検討を通して、元田は堯舜の王道政治を明治前期において本気で実現しようと臨んだ時代錯誤的な儒学者であり、また時勢に手遅れの認識もみられるが、それは彼が誰よりもまじめな儒学者であったことに起因するものであり、さらに彼の主張は後日の露骨な儒教的皇道主義とは違うものがあることを論じた。
ISSN:2046-1402
DOI:10.12688/f1000research.51001.1